『遠いうた』

徳川伯爵夫人の七十五年 遠いうた (文春文庫)

徳川伯爵夫人の七十五年 遠いうた (文春文庫)

 大変面白かった。
 
駿河台下から渋谷行きの市電で通うことになりました。…痴漢が毎日跋扈していて、十二、二歳の少女のわたしはなす術もなく、いやな思いばかりしていました。」
祖父戸田氏共は十一歳で大垣十万石の城主になった。家老が幕末の身の処し方から財政までしっかりやってくれて生涯苦労知らずの殿様だった。
妻が病気で熱が高いときなどは食べ物ものどを通らないほどだったが、常にお手つきの女中を抱え、孫である著者と同年のものもいた。
祖母は岩倉具視の次女。かつて具視が暴徒に襲われたとき、父親がかくれている藪の前にござを広げてままごとをさせられたという。
鹿鳴館の一室で伊藤博文に襲われ掛けたときは窓から飛び降りて逃げたという。
嫁ぎ先は田安徳川家。義母や島津家の出。ふすまも人に開けてもらうものと思い、廊下などに邪魔なものがあると誰かがそれをどけるまでただ突っ立っていたという。
実家は大名だったため、先祖代々の忠実な家老が経済的にもしっかり支えてくれていたが、徳川家は藩主ではなかったためただの使用人である執事に任せきりだったため経済的に没落した。
「…政府がしきりに大和魂を昂揚し、国粋主義を鼓吹して盛んに士気を煽り、ひたすら軍港主義に徹して、社会主義共産主義は勿論平和主義までも危険思想として弾圧した意向を素直に受け容れる気にはなりませんでした。戦争をすると日本が良くなるとはどうしても思えなかったのです」
日支事変には「もう駄目だ」と絶望的になった。真珠湾攻撃には「日本は一体勝つつもりなの。」とへたへたと座り込んだ。
「しかし、日本国憲法戦争放棄をうたった第九条を堅持しながら、対米関係を保ち、国家安全保障という問題にも取り組まねばならない立場にあります。もし、自衛を越えて米国の期待するように軍備をすれば、軍事力拡大を支持する人たちは、憲法改正へまで動いていくかも知れません。」

(昭和58年の本)