NHK教育テレビ ETV特集「山田風太郎が見た日本 未公開日記が語る戦後60年」(12月10日放送)

1時間半の番組だったのだけれど、途中まで忘れていて1時間だけ見た。
『戦中派不戦日記』など、戦争時の日記はすでに刊行・公表されているが、これはそれ以後の戦後から日記を書かなくなる(書けなくなる)1993年までの記録。それが、当時の映像と共に、同世代である三国廉太郎により語られる。
私は、山田のその後の言動から、彼は太平洋戦争に当時から懐疑的だったのだと思っていた。『戦中派不戦日記』というタイトルも誤解していて、不戦の態度を取っていた、ということかと思っていた。実際は、体が弱く戦争に行かなかった、という意味で、戦争時には徹底抗戦を唱えていたのだった。
後もう少し辛抱すればいい。後もう少し人を殺せばいい。一人が二人殺せばいい。
そう日記に書き付ける青年だったのだ。
戦争に行かなかった山田は、自分で戦争の姿をとらえるために、昭和40年代(50?)に入り、戦争記録(戦記・日記・体験談他)を集め、詳細なメモを取りつつ読んだ。1年ごとにノートを作り、1日ごとに記録を取った。けれど、その作業では戦争の姿を良くとらえ直すことが出来なかったという。そこで、彼は自分自身の体験した戦争を見つめ直すことにした。自分の戦争中の日記を原稿用紙に書き写すのだ。
彼の創作の秘密が見えた気がした。ついに戦争時代の小説は書かなかったけれど、明治ものや室町ものに現れる虚実の皮膜、膨大な事実の中にフィクションを溶かし込む彼の作品は、この綿密さによって生まれたものなのだ。
他に、昭和天皇の臨終について、葛湯を口にしただけで下血してしまう病状に、「餓死」という言葉を使っている。
こうして書いていても、いろいろ感銘を受けたはずなのにほとんど忘れてしまっている。
再放送希望。次こそ最初から見よう。
それから、戦後の日記も出版してほしい。

《追加》
映像に現れた昭和30年頃。なんと「閲兵式(観閲式)」をやっている。警察予備隊自衛隊)が昔ながらに隊列をそろえて行進し、戦車まで道を通る。また、吉田茂国葬では、空砲が空に向けて放たれている。
天皇夫妻の結婚式で「皇太子さん美智子さん」とテレビが言っていたのを見て、当時が一番自由な空気があったのかと思っていたが、思わぬ軍国の名残だった。
いくら現在が右傾化してきていると言っても、閲兵式は無理だろう。無理だと思いたい。