『赤ちゃんはどこまで人間なのか』

ポール・ブルーム著
赤ちゃんはどこまで人間なのか 心の理解の起源

最初に赤ちゃんに対する実験が多く取り上げられているが、タイトルほどには赤ちゃんは登場しない。それよりも、私たちの感覚、本物と偽物、嫌悪、道徳などについて広く取り上げられている。
最初に登場する実験は、こんなの。
赤ちゃんが好きなおもちゃに布をかぶせると、赤ちゃんは興味を失う。見えないものは存在しないと思うからだ。
一方、もう少し大きくなったあかちゃんでは、ものを引っ張っても動かない、もの同士が接触する前に片方が片方を動かす、など、「不自然」な動きがあるとちゃんとびっくりする。それは、その段階の赤ちゃんが一般的な物事の法則をすでに理解しているから。

本物と偽物では、「偽物」となった途端に価値を失う、価値を感じられなくなるのはどうしてか。
道徳では、私たちの「道徳の輪」について考える。旧約聖書の神は「自らの同胞を奴隷にしてはならない。奴隷にするなら周りの国々の人でなければならない」と言った。「道徳の輪」の外の人間に、道徳に基づいた痛みは感じないからだ。
赤ちゃんは、自分の泣き声の録音よりも他の子供の泣き声の方により反応を示す。
サル(チンパンジーだかなんだか)に対する実験でこんなのがあった。あるレバーを引くと、えさが出てくるか、それとも隣室の別のサルに電気ショックが与えられるか、どちらかになる。すると、サルは極力レバーを引かないようになった。どうやらえさはその装置でのみ与えられるようになっているので、お腹が空くとどうしてもレバーを引かざるを得ないのだが、同類を苦しめるのを極力避けようとする。しかし、レバーを引くとウサギが苦しむ、という装置では、サルはレバーを引くのをまるでためらわない。それは、ウサギがサルの「道徳の輪」の外にいるからだ。

嫌悪という観念についても語られている。
ナチス時代、ユダヤ人が強制輸送されるとき、駅のトイレを使わせてもらえなかった。ホームにうずくまって用を足す彼らを見て、人々は嫌悪を抱き、やはり彼らは劣悪な人種だと納得したのだった。
嫌悪の対象もまた人によって異なる。特に性に関することはそうだ。同性愛に嫌悪を感じるものもいれば、異人種のセックスに嫌悪を感じる(ことがあたりまえだった)こともあった。

また、クローン人間に嫌悪を感じる人でも、それをフィクションとして描いた作品にまで嫌悪を感じることはほぼ無い。一方、獣姦をあつかった作品は嘲笑と怒りで迎えられた。

メモを取らずに読んだので、この文章もバラバラな上に、たぶん間違いもあるだろう。
だから、ちょっとでもおもしろいと思った人は、ぜひ原典に当たってください。