『乳房はだれのものか』

乳房はだれのものか―日本中世物語にみる性と権力

乳房はだれのものか―日本中世物語にみる性と権力

第2部と、特に第3部は、基礎知識がほとんどないためか、歯が立たなかった。
第2部は、現実には女帝がいなかった中世において、女帝の登場する物語が生まれたのにはどういう背景があったのかを書いている。また、女性が往生するにはまず、男子にならなければならないする極楽往生に対して、女性が女性のままで往生できる兜引天往生についても書いてある。女帝が描かれている物語『我が身にたどる姫君』が読みたくなった。
第3部は、中世において神功皇后が女帝として語られることや、八幡信仰、『曾我物語』について書いてあるが、歯が立ちませんでした。

対して、第1部は、以前から気になっていた召人をあつかっていて、『源氏物語』が例としてあげられているのでとても面白く読んだ。(以下、メモをとらずに読んだ覚え書きなので、あまり信用しないように)
召人(めしうど)とは、男主人と性関係のある女房。私の下世話なイメージでは、「社長のお手つき秘書」だったのだけれど、もっと高度に制度化されたものだったのか。
まずは、表題「乳房はだれのものか」という問がある。つまり、性のための乳房か、授乳のための乳房か、ということ。かつての上流階級では、母は授乳を行わない。授乳を行わないために、その身体は早く妊娠可能となり、子を産むべき正妻をはじめとした妻たちは次々と子を産んでいく。
(『源氏物語』おいて、雲居雁が泣く子をあやすために子に乳を含ませる。また、紫の上は、継子明石の姫君にたわれに乳を含ませる。かたや実母であり、かたや継母であるが、実は、雲居雁の乳房からも乳は出ていない。授乳は、(実)母であることの条件にはならないのだ)
対して、「子を産まない」とされた女たち・召人がいる。彼女たちは、現実に出産するかしないかはともかく、「子を産まない」と制度化された。しかし、現実には避妊法などない時代、子は生まれたであろうし、そうすれば、女主人(妻)とほぼ同時期に子を産むことも大いにあり得、召人はそのまま妻の子の乳母となり得る。つまり、身近な女房を性関係の相手とすることで、常に乳母候補を持ち、かつ乳母として授乳中は、避妊状態の性関係の相手ともなるわけだ。
もう一つ、授乳、乳房、は「エディプスコンプレックス」ともつながる。つまり、自分が愛着を持った乳房がそのまま性的な対象になると言うこと。これは、授乳するのが実母である場合、強烈な禁忌となる。しかし、これが乳母ならばどうか。これは全くタブーにはならず、新枕の相手が乳母、というのは往々にしてあった。(乳母が父の召人であった場合、父と子で同じ女性とつうじたことになるが、これもタブーにはならないようだ)
『とわずがたり』で、深草院の新枕の相手は、自分の乳母であった二条の母であり、その後も彼女に強い愛着を示していたが、乳母には夫がいたためにその欲望は充足し得なかった。だから、その乳母に娘(二条)が生まれたときには、いつか自分のものに、と思うのだ。しかし、自分の召人の子と関係を持つことは、近親姦の危険をはらむ。『とわずがたり』が、長く秘められていたのは、天皇の乱脈な性関係を描いているからではなく、乳母への欲望を乳母子との性交によって意識的かつ具体的に解消しようとしたからではないかという。
光源氏が最後に性関係を持った相手が、召人、中将の君であったことは、押さえて置いていい事実だと思う。
また、『源氏物語』でも「宇治十帖」に入ると召人たちは全面に出てきて、薫が、浮舟を通い所(妻)ではなく召人にすれば良かった、とか、反対に召人、小宰相の君を妻として遇せば良かった、と思うなど、召人と(序列の低い)妻は入れかえ可能なものとして現れてくる。

他にも、召人は男の場合にもあった、とか、乳母もまた一つの権力者となるに従って、授乳しない乳母も現れ、男の乳母(乳父・めのと)へと権力が移っていく、などいろいろ面白かった。