『内親王ものがたり』

内親王ものがたり

内親王ものがたり

歴史上に現れた内親王を、飛鳥時代の大伯皇女から和宮まで、その生涯と文学的な側面に焦点を当てて描いている。

印象に残ったのは、
光仁天皇の皇后井上内親王
この人と息子の死で、天武系の皇統が断絶した。やはり、この人に生きていてもらっては困る人たちがいたのだろうと思える。また怨霊となったとされた最初の例でもあり、日本の精神史の上からも重要な人物だと思える。

恬子内親王菅原道真との恋愛で有名なこの斎宮が、子を産んでいたとははじめて知った。その血が高階家(定子皇后の実母の家系)へとつながっていることも。

有智子内親王は、森谷明子『葛野盛衰記』に出てきた内親王だよね。

堀河天皇中宮篤子内親王は、一番の驚きだった。『讃岐典侍日記』を読んだときは、不自然に年上の妻で、あまり仲もよくなさそうと思ったのだが、それは、おそらく『日記』の解説を書いた人の考えがそうだったからなのだろう。猿之助藤間紫の例があるごとく、幼い日の初恋を大切に持ち続けることはあり得るのだ。13歳の天皇は、お后はどなたがいいかと聞かれて「ただ四の宮を」と当時32歳の叔母を求めた。そして、天皇中宮の二人は、最後の、と言っていい宮中文学サロンのかがやきを演出するのだ。

幼帝にたいし、その姉やおばなど、独身の内親王を一種の後見として「皇后」とする「尊称皇后」という制度についてもはじめて知った。「皇后」は親代わり「中宮」は妻、という使い分けも行われたそうだ。
また、この本にも出てくる八条院翮子が莫大な所領をもっていたのは知っていたが、それは、独身の内親王に所領を集中させることで、分散・散逸を防いだためだ、と言うことははじめて知った。その八条院の所領が、後に南朝を支える基盤となったことも。吉野に引っ込んだ南朝が60年近くも存続したのは、その財産あってのことなのだ。