『平安王朝』

平安王朝 (岩波新書)

平安王朝 (岩波新書)

再読

平安遷都から平家の滅亡までを、「王の年代記」として描いている。延喜・天暦の治と言われる天皇親政は、適当な人臣に恵まれなかった故のことであった。平氏の専横と言われる福原遷都も、天皇自身が目指したことだった。
これまでのイメージを覆し、主体性を持った天皇たちが現れてくる。

幼帝が即位すると、その皇太子には前天皇の弟が立つことになる。(現天皇の叔父)すると、天皇と皇太子の年齢の逆転が起きる。そして、その幼帝の治世が長引けば、皇太子は長い「待ち」の時を過ごすこととなる。その間、摂関家の方も、長子は天皇の側近となり、次男などは東宮の側近となる。そのため、天皇家摂関家ともに家族の中で矛盾を抱えることになる。
それが現れたのが、たとえば一条天皇三条天皇。また、後一条天皇後朱雀天皇だ。特に、後一条と後朱雀は、同母兄弟であるにもかかわらず、弟の後朱雀は傍系意識を持っていたようだ。彼自身の諡号、息子たちの諡号が、後朱雀、後冷泉、後三条と、一条とは系列の違う天皇たちの名がついているのはそのためなのか。

また、もう一つ気になったのは、高階氏について。これは、一条天皇皇后定子の母の氏だが、その祖先は、在原業平と伊勢の斎宮の密通によって生まれた子、とされている。そのため、高階氏伊勢神宮に参れないという。定子の孫にあたる嫄子女王が、後朱雀の妻となったが産褥死したとき、「(伊勢神宮の)神罰」と言われたという。後朱雀はそのことを気にし、御所の庭で身体が冷えるまで神拝を繰り返し、身体を損ねたという。
しかし、定子立后の時点では、そのことは問題にならなかったはず。また、後に、定子の地位の正当性に疑問が挟まれたのも、主に、出家したからであったはず。すると、この「神罰」云々は、定子に傷をつけるために補足的にいわれはじめたことが、時を経て、過大に扱われるようになったことなのか。
ちなみに、嫄子女王の入内は、定子の子敦康に思い入れを持つ、彰子と弟頼通の執念によるものと、筆者は書いている。
また、平安初期の王は、后妃を多く持ち、子女もまた何十人といた。なのに、平安後期になると、正式な后妃自体も少なくなっているものの、召人的な存在はやはり幾人もいたであろうに、子どもの数がずいぶんと少ない。これは、近親婚に関係あるのだろうか?