「ハムレット(さいたまネクストシアター)」

それから2週間後、『2012年・蒼白の少年少女たちによる「ハムレット」』を見た。こちらは正味3時間15分という長丁場のノンカットストレートプレイ。
何度「ハムレット」を見てもろくに覚えていない自分は、今になってミュージカル版はノルウェーとのからみやローゼンクランツとギルデンスターンらがカットされていたことに気づいた。
このお芝居の特殊な演出(床が透けていて、上下2段構造の舞台になっている。そこは最初楽屋として演出されている)については他のブログ等を見てもらうとして、やはり圧巻はこまどり姉妹の登場だろう。
有名な「尼寺へ行け」のくだりで、ハムレットとオフィーリアの二人が苦しみのたうち回る。そこで突然、それまで開かなかった奥の幕が開き、キラキラした着物のこまどり姉妹がマイクを持って登場「幸せになりたい」を唄うのだ。
こまどり姉妹が登場することなど、すっかり忘れていたのでまずは「あっここで来るのか!」と笑ってしまった。それから、ずどんと「幸せになりたい」という言葉が突き刺さってきた。

以下、劇を見ながらの思考の流れ

これは60年代か70年代の曲なんだろうけど(実際には1966年の曲)、私たちはいつから「幸せになりたい」とストレートに言えなくなってしまったんだろう。この曲の頃は言えたんだろうなあ。(見たことないけど「三丁目の夕日」的世界を思い浮かべる)

いや、ハムレットたちだって「幸せになりたい」と口に出来ない、あるいは、そう思っていることを自分に対してすら認めることが出来ないから苦しんでいるんじゃないか。「幸せになりたい」と言えなくて、理屈や思考をこねくり回すからこんな悲劇になるんじゃないか。

やっぱりこれは「三丁目の夕日」時代、高度経済成長期だからこそみんなが「幸せになりたい」と言えた幸せな時代だったんじゃないか?

だけど、歌だからこそ言えた、という事もある。当時のこまどり姉妹だって、個人として「わたし幸せになりたいの」と言えただろうか?

クローディアスとガートルートも「幸せになりたい」と思っていて、そして中年を過ぎた彼らは、若いハムレットたちのように理屈をこねくり回すのではなく、もっとストレートに、言い換えれば即物的に幸せを求めたのかも知れない。

今の自分は、「幸せになりたい」と言えるだろうか。そもそも何でこんなに「幸せ」って言葉は陳腐になってしまったんだろう。みんなが同じ「幸せ」を求めたからなのかな。

今からでもみんな「幸せになりたい」って言った方がいいかも。ただし、その「幸せ」は、自分で考えて求めた幸せであることが大切。
でもそうすると「自分探しの旅」が始まっちゃうのか!?

などとお芝居を観つつ、「幸せになりたい」をキーワードにあれこれと考えてしまいました。
その点、蜷川さんの演出は大当たりなのかも。
ただ、私の場合、こまどり姉妹にとらわれすぎて、もう一つのポイント、最後のフォーティブラスの行いを考える余地がなくなってしまったのはよくないかなあと思います。

楽日だったので、こまどり姉妹のアンコールや挨拶もあった。かぶりつきで姉妹の歌を聴き、姉妹のお話を直立不動で聞く蜷川さんはとてもほほえましかった。

ハムレット」という群像劇としては、これがマイベストです。