「ハムレット」ニナガワ×シェイクスピアレジェンド

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同じ蜷川のネクストシアター版の印象が鮮烈で、今後「ハムレット」を見る時にはあの舞台を前提として見ることになると思い知った。
ネクストシアターのは、「尼寺へ行け!」のところで、こまどり姉妹が闖入してきて「幸せになりたい」を歌う。
その時、この芝居は、「幸せになりたいのにそれを口にできない若者たちと、幸せを貪欲に追及する中年たちの物語だ」と、私は思ってしまったのだ。

だから、今回、私は最初からクローディアスを「幸せになりたい中年男」として見てしまった。もう、そうとしか見られなかった。
平幹二朗の貫禄の演技も相まって、すっかりクローディアス目線で見てしまう自分がいた。井戸端でのみそぎ?など、手に余る物を望んでしまった男の苦しみが如実に伝わってきた。
(その分、決闘のシーン前後の、悪役悪役した彼とちょっとつながりが悪く感じてしまった。腹をくくって悪に徹したということだろうか)
そもそも、父ハムレットというのはどういう人物だったのだろう? 殺されるだけのことが、すぐに次の夫に見替えられてしまうだけのところがあったのではないか? そういう疑問が頭を離れない。
ハムレットが言うほどの人物だったのか。妻だけじゃなく、部下たちもクローディアスが王でいっこうにかまわないみたいだし。

藤原竜也ハムレットは、以前の鈴木杏とのも見たんだけど、ちょっとうっとうしくなって、ネクストシアター観劇以前の目線でも、あまり同情できない感じ。
逆説的だけれど、彼のまっすぐな激情がハムレットという役柄に合いすぎて、私には合わないのだと思う。

最後のフォーティンブラス。1階後方席だったけれど、心配していたよりは声が聞こえた。
確かにもう少し聞きやすい音量でもいいかと思うけど、彼の声は聞こえなくてもよし!っていう演出だろうけど、やっぱり聞き取れないともやもやするよね、観客は。
観劇前に見た劇評で「彼のひ弱さは、蜷川の未来に対する悲観を示しているのでは」と読んだ。
しかし、私には彼の線の細さ、ひ弱さは希望に見えた。
今、中東やウクライナで起きている混乱と悲劇は、ハムレット的激情と復讐への執念、クローディアス的全てを手にしたい欲望(欧米とか中国、日本)が招いているように思える。
ならば、そこからの救いは、あのフォーティンブラス的青白いひ弱さ、アパシーhttps://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%91%E3%82%B7%E3%83%BC-26515)的感覚にあるのではと思えた。