『皇后考』

皇后考

皇后考

明治期に意図的に初代天皇として取り上げられるまで、神武天皇は民間ではさほど重んじられていなかった。対して、神功皇后は彼女を祀る神社も遙かに多く、五月人形も昔は神功皇后だった。
大正期に歴代天皇を確定する作業が行われるが、その時に、北朝を正当とすること,長慶天皇を歴代に加えることなどと共に、神功皇后天皇加えないことが決定された。
そこには、天皇さえしのぐ力をつけようとしていた大正天皇皇后節子の存在があったのではないか。
皇室のあり方や宮中祭祀は、明治に入りかなり意図的に作り上げられたもの。その作為性を知る明治、大正帝はさほど祭祀に積極的ではなく、代拝も多かった。
体が弱く船酔いもする明治帝にたいし、皇后美子は海軍好き軍艦に乗り水雷発射訓練なども見ている。日露戦争に対しても、天皇より積極的であった。

美子は美貌ではあったが華奢で子どもに恵まれなかった。政府は、日本が文明国であることを示すため大正天皇においては一夫一婦制を確立したかった。そのため、最初候補に挙がった華奢で美しい女性ではなく、農村育ちで丈夫な節子が選ばれた。節子は当時の風習で、杉並の農家に里子に出されそこで育った。下田歌子などが「取り立てて優れた点も見えないけれど」などとあからさまに消極的選択であることをメディアに語っている。
そのためか、大正天皇との関係はあまり良くなく、天皇は美貌の女官を追いかけ回すことも多かった。(秩父宮の双子の妹、などと言われているのは女官の子では?との推測)
そんな中で「皇后」となった節子はやがて神功皇后を祀る香椎宮やアマテラスを中心とした「神ながらの道」に傾倒してゆく。それは、洋風に育ったために宮中祭祀ができるのかと危ぶまれた昭和天皇などよりも、自らの方が皇神に近いと思うようなところにまで進む。また、皇室の近代化を進める昭和帝との齟齬ともなっていき、秩父宮への偏愛にもつながった。
大元帥としての天皇、慈母としての皇后という役割分担がなされた。皇后の分身として各宮妃王妃(李方子)も病院などの見舞いに奔走した。
戦時中、皇太后節子は戦況から切り離された状態が続き、敗色が濃くなってきてからはどのようにそれを伝えるかなどが配慮された。敗戦直前に昭和帝が香椎宮宇佐神宮に使者を送り祈祷させたのは皇太后への配慮だろう。(戦後、量神社に昭和帝は参拝していない)一方、皇后良子はキリスト教に接近し、それは天皇も黙認していた。
勝利を一心に神に祈り続けた節子はしかし、戦争が終わると憑き物が落ちたように気持ちを切り替えた。梨本宮妃とは好対照。そして、雅楽、養蚕、救癩などに自分の役割を見いだし、天皇に匹敵する巡幸を続ける。
敗戦後、天皇退位が取りざたされるが、皇太子はまだ若年であり、摂政としては(秩父宮は闘病中のため)高松宮、そして皇太后節子が挙げられた。後には、秩父宮妃も。
戦後、天皇アメリカに対する牽制もあってかカトリックに接近する。改宗まで視野に入れていたと思われる。
また、戦後は、天皇・皇后ともに「慈母」を体現するようになる。(マッカーサーが父性)
皇太子妃美智子により「皇后」のイメージは神功皇后ではなく光明皇后となる。(節子も両皇后を体現しようとはしたが)
皇室に生まれるのではなく、さまざまな葛藤を克服して皇后となる。誰もが、節子(貞明皇后)や現皇后のように、その過酷な条件をクリアしてナカツスメラミコトになれるわけではないのだ。