『ブロンテ姉妹の抽斗』

*『ブロンテ姉妹の抽斗』

ブロンテ三姉妹の抽斗―物語を作ったものたち

ブロンテ三姉妹の抽斗―物語を作ったものたち

9つの物から姉妹を語る。

嵐が丘』の冒頭、キャサリンは聖書に日記的書き込みをしている。あれは日記を書くノートを手に入れられない不自由さと聖書に書き込む奔放さを表しているのかと思っていたが、この時代の人は本にあれこれ書き込むのが普通だったらしい。
針箱
個人的なものをしまう所であり、物を書く習慣が無かった人々は刺繍見本に自分の心を綴った。

当時、女性が長い距離を歩くのは奇異なこととみられていたが、姉妹はよく歩いた。当時の長いドレス、歩きにくそうな革靴ですごいことだと本当に思う。特に本すら目に近づけなければ見られなかった近視のシャーロット、歩きにくかっただろうと思う。
犬の首輪
大型犬キーパーとの関係が、ヒースクリフの造形に役立っているのではないか、という。
手紙
行間を取って一方向に書いた後、紙を直角に回し続きをクロスさせて書く。こういった手紙は博物館で見たけれど、紙が貴重だったからだと思っていた。そうではなく、当時は郵便料金が高く(荷物より高い)、しかも受取人が払う仕組みだったために、相手に負担をかけないための工夫だったという。姉妹の時代に現代につながる郵便制度ができ、切手が生まれた。そこから手紙やカードを贈る習慣も広まったという。郵便に封をする封緘紙もいろいろあり、エミリーは謎かけタイプを集めていた。

テーブルやひざにおいて使う。旅にも持って行った。プライバシーのない狭い家に暮らす一家、家庭教師生活で、大切な個人的な物を入れる場所。テーブルで書くのじゃ駄目なんだろうかと前から疑問だったけれど、当時のテーブルはそこまで平じゃ無くて、傷もいっぱいついていたからだろうか、と言うのが私の個人的な想像。
髪を使った細工
当時は専門の業者までいた。髪を送って作ってもらうのだが、他人の髪が使われるのでは?という懸念が常にあった。後に衛生に関する考えが広まり、廃れていったという。死者の記念だけでは無く飼い犬の毛で作ったショールなどもあったという。(ナチスが収容者の髪で布を作った。もちろん彼らの歪んだ合理性と冷酷さを表しているのだろうけれど、その遠因に、こう言った伝統もあるのでは?と今回思った)
アルバム
万博からブームになったシダが主に取り上げられている。日本ではそんなに美しいイメージのないシダだけれど、欧米人(英米人?)は好きらしい。『若草物語』でシダをスケッチしているシーンが子供の頃から不思議だったけれど、今回ちょっとわかった気がする。
姉妹の遺物たち
姉妹の死後、遺物は散逸していく。姉妹が有名になったため、父らがその手紙の署名を切り抜いて他人に譲ったりした。また、シャーロットの夫が教会の牧師になれなかったため、彼は故郷アイルランドへ帰った。その際にも多くの物が譲られ競売にかけられ、散逸した。現在博物館に収められている物でも、本物か疑われるものがあるという。文学者の遺物の偽物を作り、それで稼いだ金で本物の遺物を収集したワイズという人物が興味深い。ブロンテ協会の会長を務めたこともあるという。

ハワースもスカーバラも2度ずつ訪れたことがあるので、実際に目に遺物も多い。そこに込められた姉妹の思いや時代背景がわかり、とても面白かった。また、他の作品などで疑問に思っていたことを考えるヒントにもなった。
翻訳のせいか意味のつかみにくいところがたまにあった。

『反知性主義』

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

 反知性主義という言葉をよく聞く。なんとなく無知を恥じない、「馬鹿でもいいんだ主義」のように思っていて、日本では識者でもそういう解釈をしている人もいるようだ。
しかし、本来の反知性主義とは、知のヒエラルヒーの否定、言ってみれば東大主義(東大出身者が固定的に権力構造を左右する)の否定であって東大そのもの、あるいは東大で教えている内容を否定しているのではない。
権威に寄りかかるのではなく、自分自身で考え発見していくことを重視する、それが反知性主義。だから反知性主義の源流とも言えるリバイバリズムが盛り上がった時代には、奴隷解放や男女平等などの動きも大きくなる。
リバイバリズムとは、教会の権威より自分自身の回心を重視する考え。ある種の檀家制度のようになっていた既存の教会(チャーチ)に異議を唱え、それゆえ分派していく傾向がある(セクト)。
プロテスタントの「聖書のみ」が、アメリカでは特定の教義を持たない「信条なし」になる。故に各教派の違いは所属会員の地位・収入・学歴となる。
無教養と考えられるバブテストに対しメソジストは「読み書きのできるバブテスト」長老派は「大学に進学したメソジスト」、アングリカン派は「投資の収益で暮らす長老派」と呼ばれたという。

余談だけれど、今、モンゴメリーの「ストーリー・ガール」シリーズを再読中。そこで、子供たちからみても、天国へ行くのになぜ「教会員」であることがそれほど大切なのか。なぜキング一家が長老派、雇い人であるピーターは本来メソジストとして描かれるのかがわかった。

また、アメリカは早く政教分離を掲げた国だけれど、それは「それぞれの宗教を大切にできるように」ということなのだ。フランスなどとはずいぶん違う。
リバイバリストの集会で、衆人の中で己の過去を語り、回心する様はこの本の中ではスポーツのパブリックビューイングに例えられているけれど、私は「24時間テレビ的」だと感じた。
(マイクもない時代)本当に2,3万人の会衆に声を届けることができたのか、実地で測り計算するベンジャミン・フランクリンはさすが。また、なぜ既存の教会の牧師ではなく、巡回説教師の説教の方が人を引きつけるのかの考察もさすが。(普通の教会では毎週同じ人間に説教するために同じ事は話せない。対して巡回説教師は毎回違う相手に対するのでだんだん説教が錬れてくる)

 最後の知性intellect と知能intelligence の違いも面白かった。インテリジェントなのは人間とは限らない。インテリジェントな機械も動物もある。しかし、インテレクトな動物・機械は存在しない。つまり知性は人間だけの物なのだ。知性とは単に何かを理解したり分析したりする能力ではなくて、それを自分に適用する「ふりかえり」の作業を含む。だから「知能犯」はいるが「知性犯」はいない。

とても面白く読んだけれど、理解が追いつかないところも多く結局雑学あつめ、「へえ」に終わってしまった感もある。しかし、再び「反知性主義」が言われる現在、LGBT関係で動きが見られるなど、どこか関連しているのかなあと思えた。

『深読みシェイクスピア』

深読みシェイクスピア (新潮文庫)

深読みシェイクスピア (新潮文庫)

 大変面白かった。シェイクピア個人全訳をされている松岡さんが翻訳をする過程で発見したことを語っている。
 「ハムレット」で、なぜオフィーリアは自分自身について「the noble mind」と言うのか? 著者はずっと疑問だった。それをオフィーリアを演じた松たか子はあっさりと「父親に言わされていると思っている」と喝破した。相手役の真田広之もやはり親に言わされた言葉だと思っていたという。そして、脇役に見えるボローニアスの文体、他人に台詞までつけるその有り様を発見していくのだ。また、ボローニアスは比較をしない。比較をするのはハムレット
 これをロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの役者に伝えたところ、この発見のためだけにでももう一度ハムレットをやりたいと言ったという。
 「ヘンリー六世」では、フランスからイギリスに来た王室について。ウィリアム征服王というと、イギリス王がどこを征服したかと思うが、実際はフランスから来てイギリスを征服した王だった。ヘンリー二世とヘンリー七世は、単にご先祖様としか思えないけれど、その文化背景は全く違う。
 youとthou。thouは親しみを込めた対等な言葉。だから「ロミオとジュリエット」においてジュリエットの言葉を過剰にへりくだらせてはいけない。その「thou」の文脈で使われる「my load」は「旦那様」といったニュアンスの甘やかな言葉。
対して「オセロー」ではデズデモーナは一貫して「you」を使っている。そして「my load」をよく使う。ただ「あなた」とだけ訳されて松岡さんも疑問に思っていなかったこの言葉、それを原文も読んでいないのに疑問を持った蒼井優。実際にはそこだけは「my good load」だった。そこは「my good lady」というオセローの言葉を対応していて、オセローにはすでに疑いが兆しており、一方そんなことは夢にも思わないデズデモーナはその呼びかけに「奥様なんて呼ばれちゃった」という喜びをこめて「my good load」と返すのだ。
 「恋の骨折り損」は気楽な喜劇のようだけれど、その背景には聖バルテミーの虐殺とそれに続くアンリ四世の度重なる改宗がかくれている。
 「夏の夜の夢」では、「enforced chastity」の解釈。最初は「犯された操」としていたし、そういう解釈も多い。しかし、ジョン・ケアードは「強制された純血」と解釈した。その方が劇のはじめと呼応する。
 「冬物語」では、唐突と思えるレオンティーズの嫉妬が、唐沢寿明のすばらしい解釈で腑に落ちるようになる。そして、最初の公演地から次の公演地へ行った後でもまた彼はすばらしい解釈を見せる。ここは唐沢が演出の蜷川幸雄を超えているとも見える。
マクベス」で、一卵性夫婦であった二人は、最初は「we」をつかっていた。それが「alone」と「we」と齟齬を来すようになり、最後はそれぞれが「alone」として死んでゆく。

大変面白かった。さいたまシェイクスピアシリーズ完結を目指して、まだまだ頑張っていただきたいです。

『蘇我氏の古代』

蘇我氏の古代 (岩波新書)

蘇我氏の古代 (岩波新書)

蘇我氏関連の本を続けて読んだので、印象に残ったのは蘇我氏以外のことになってしまった。

六世紀頃、氏(うじ)が生まれた。最初にヤマト政権における職掌を氏の名とする氏族が生まれ、それに関連して地名を名とする氏族が生まれた。
職掌を名とする名負いの氏族は物部氏や大伴氏、中臣氏など。奈良盆地東部を拠点とする氏族が多い。姓は「連」。
地名を名とする氏族は、葛城氏や蘇我氏奈良盆地西部を拠点とする。姓は「臣」。

蘇我本宗家は乙巳の変で滅んだが、他の系列は天智天皇の近江朝でも活躍した。しかし、その彼ら赤兄の系列も壬申の乱で滅びることになる。
蘇我氏の没落には乙巳の変だけでなく、壬申の乱も大きく関わっていた。

  でも、不比等の正妻、北家、南家、式家の祖の母を出した連子の家系が繁栄しなかったのはちょっと不思議だ。娼子が若死にしたからか?

藤原氏は本来中臣という名負いの氏族であったが、不比等の家系のみを藤原として他を中臣にもどすことで、「中臣」という職掌、名負いの氏族であることから解放された。姓も「朝臣」となる。
蘇我氏と同じく外戚として力を振るったが、律令を整え、「蔭位制」をつくることで権力の子孫への継承を可能にした。
不比等の子供たちは不比等の蔭位ではなく、鎌足の蔭位を受けた。正三位であった不比等の子として蔭位を受けるよりも、正一位であった鎌足の蔭孫として位を得た方が高位につける)
また、四兄弟が四家に別れることで、太政官には一家一人しか入れない慣例を覆すことができた。

歴史のなかの大地動乱

歴史のなかの大地動乱――奈良・平安の地震と天皇 (岩波新書)

歴史のなかの大地動乱――奈良・平安の地震と天皇 (岩波新書)

2011年の東日本大震災を契機に書かれた本。あの時に貞観地震(著者は陸奥海溝地震と呼ぶ)がずいぶん話題になった。その頃、8、9世紀は日本にいくつかある大地動乱の時代だった。日本だけではなく、東アジア全体が動乱していた。
864 富士噴火
867 豊後鶴見岳阿蘇山噴火
868 京都群発地震 播磨国地震
869 陸奥海溝地震貞観地震) 肥後地震
  870 新羅 慶州地震
871 出羽鳥海山噴火
  872 新羅慶州地震
874 薩摩開聞岳の噴火
  875 新羅慶州・東部地震
878 南関東地震
880 出雲地震 京都群発地震
885 薩摩開聞岳の噴火
886 伊豆新島の噴火
887 南海・東海連動地震
915 十和田大噴火
  946 長白山脈 白頭山大噴火

富士噴火から南海・東海連動地震まで23年。十和田噴火を入れて51年 白頭山を入れても82年の間にこれだけの地震、噴火が起きたのだ。(韓半島地震は被害は少なかったようだが地震自体が大変珍しい)

それ以前の7世紀にも地震噴火が多かった。
  664 新羅・慶州大地震 日本でも
678 筑紫地震
684 南海地震 伊豆神津島大噴火
701 丹後地震
715 遠江三河地震
734 河内・大和地震
742 大隅海底火山噴火
744 肥後地震
745 美濃地震
762 中部地方地震
764 大隅海底火山噴火
772 豊後鶴見岳噴火
  779 新羅王都大地震

この、8、9世紀は奈良時代が終わり平安時代に入る、皇統においても混乱の多かった時代であった。
歴史漫画等で得たイメージでも、万葉(飛鳥)の時代になかった物の怪や怨霊が、『源氏物語』の時代になると跳梁する。
それは、皇統の混乱と収束の中で無念に死んでいった者たちが多かったことと、この大地動乱が原因なのかもしれない。
著者によると怨霊化したものの最初は長屋王であるという。(万葉時代の人物)(それ以前にも、有馬、大津、崇峻天皇など無念に死んでいった者はいたけれど確かに怨霊化したイメージはない。)
以後、桓武の即位に向け排された井上内親王他戸親王らが怨霊化していく。
地震の多かった時代、陵墓が地震に襲われることが、そこに祀られた人間の怒りと感じられたこともあったようだ。

また、この時代は疱瘡などパンデミックの時代でもあった。 地震、火山、疫病が三位一体となって人々を襲った。それは自然神から祟り神へと神の姿が変わっていく時代でもあった。御霊信仰祇園会などもこの時代に始まった。
天皇は、災害の多い日本では無理のある天譴思想に苦しめられつつも、反対に天皇の力を強化していく。万世一系を意識し「君が代」と歌われるようになるのもこの8、9世紀なのだ。

八百万の神の国日本で、火山や地震が神として祀られなかったはずがない。天照大神に人為的に収束させられてしまった日本神話の中に、その痕跡を探そうとしている。

追記:『呂氏春秋』には「地震のおそれを転移させるために国城を増すなどの事業をおこしてはならない」とあるそうだ。復興オリンピック!などという現代日本よりもよほど理にかない、心がある。

 誰がネロとパトラッシュを殺すのか――日本人が知らないフランダースの犬

誰がネロとパトラッシュを殺すのか――日本人が知らないフランダースの犬

誰がネロとパトラッシュを殺すのか――日本人が知らないフランダースの犬

大変面白かった。『フランダースの犬』はほぼ日本以外無名、と聞いていたので、作者のウィーダも無名なのかと思っていた。
しかし彼女は、一世を風靡し、セレブな生活を楽しみ、そして存命中に忘れられ困窮のうちになくなった人だった。
そして、その窮状について新聞に載り、それを読んだ日本人が興味を持ち手に取ったのが『フランダースの犬』だった。

アメリカ映画も意外にたくさん作られていて1924年版のネロはチャップリンの「キッド」の名子役クーガン。
アメリカ版はハッピーエンド。絵が認められるだけではなく、ネロは家庭(コゼツ家や画家の家)を手に入れる。それはアメリカが、家族を大切にして、アメリカンドリーム(自分の才能で成功する)国だから。

日本の1975年版アニメは、全52話の詳細なあらすじ&解説があり、わたしなどはそれを読んだだけで涙がぼろぼろ出てくる。
「日本アニメ独特の遠近法」、鳥瞰ぎみなのに地平線が見えない、については日本人の私にはあたりまえすぎるのか、ぴんとこなかった。ディズニーとかとそんなに違ったっけ?
あと、p95「日本では伝説になったシーン」、座ったアロアをネロがスケッチ、というのもわからない。伝説ですか? 「疲れたよ、パトラッシュ」とか「クララが立った!」ならわかるけど。
75年版アニメは長大なこともあって、季節の移ろいや、ネロが職人芸に触れたりして絵画への理解や自分の描きたい物をつかんでゆく様がゆったりと描かれる。
それこそ「伝説」の昇天シーン、欧米人は「笑止千万、おめでたい、古くさい、大げさ」とぼろくそ言うらしい。好意的な意見でも「かわいい、愉快、おもしろい」だと!
欧米では天使が商業化して陽気で楽しいものになっているからだそうだ。日本だって一般的に、赤ちゃんタイプの天使は商業化していてかわいいものだけど、あのシーンでそうは思わないよね?
いろいろ考えて、あそこでキューピーさんの群れが天から下りてくるような感じか?とイメージしましたがどうでしょう。
原作で、ネロとパトラッシュが同じ墓に入るのは、キリスト教的には非常に異質だという。そして、このアニメではネロとパトラッシュだけではなく、荷車も一緒に昇天している。

1992年のアニメシリーズは全く知りませんでした。
1997年のアニメ映画は友人が見に行って「すごいよ、みんな泣く気満満で見てる」と話したことがいんしょうに残っている。著者も1975年の作を見た日本人なら開始10分で感動の涙を抑えられないだろうといい、研究のためにうんざりするほどテレビシリーズを見た著者もそうだったと書いている。(ここは読んでいておかしくてならなかった)
この97年映画は、風景や風俗においてオランダとの混同が無く、非常に良くできているという。見たくなった。
あと、ジャニーズ主演の実写翻案映画もあったとか。

最後は、作品の「舞台」アントワープとホーボーケンを巡る話。ホーボーケンの方は自ら名乗りを上げたらしい。思い入れを持って現地へやってくる日本人と、こんな悲惨な話で売りたくないアントワープ、観光化したいけれどちょっとずれていて意思統一もできていないホーボーケン。著者は、もっと日本人の思いを大切にしようといろいろ書いてくれているけれど、私は「どうぞお気遣い無く。。。。」と思ってしまった。思い入れの強い人間なら、特に何もしてくれなくてもその場に行くだけで満足できると思うので。変に日本人を意識されても居心地が悪い。(スイス、ユングフラウヨッホに行く登山列車の案内映像、日本語版だけハイジが登場して、あの甲高い声のナレーションが流れた。期間限定だったらしいけど)
ここでびっくりしたのが、文学作品などの舞台に行きたがるのって日本人だけなの? 本当に? 大昔の歌枕の場所で感慨にふけるとか、なにか日本人の伝統に根ざしているのだろうか。もちろん、外国人にだっているんだろうけれど、傾向として日本人はそういうのが好きなのかな? 大学時代に史跡・文学ゆかりの地を巡るというサークルに所属していたので、ある意味ここが一番の驚きだった。

翻訳者の補遺として、日本の『フランダースの犬』翻訳史があった。日本でもハッピーエンドバージョンがあった。また、翻訳というより翻案作品では、戦争や戦後など、社会情勢が反映していたが、75年アニメ以降はあれ以外の結末は許されなくなった。

75年アニメ当時は5〜6歳。まさに、最初の歌のオランダ語部分もいまだに口ずさめる世代。やっぱりルーベンスを見ればネロを思い出すし(初めて見たときは、いかにも肉食人種なルーベンスの絵と、「フランダースの犬」のはかないイメージが合わなくてびっくりした)、アントワープと聞いても思い出す。ボクライク野外博物館に行ったときも、「フランダースの犬」に思いをはせた。典型的なある世代の日本人です。

『世界の辺境とハードボイルド室町時代』

大変刺激的で面白い本だった。読みたい本がいっぱいできてしまった。
「辺境」とは、まずはソマリ、それからミャンマーなど。 
法があるからと言って機能しているとは限らない。 
関所は山賊。今でもインドなどは夜間のみの施設?料金所がある。
足軽は略奪集団で、応仁の乱の時期は徳政一揆が起きていない。
その戦国が終わった頃の「かぶき者」は犬を食べたり、戦国の習慣をわざとやった。綱吉の生類憐れみの令は、それへの対策もあったかも。
刀槍や弓矢と違い、刀は実戦の役にはあまりたたない。その代わりシンボリックな意味がある。それは自動小銃とピストルの関係と同じ。ご褒美としてピストルを賜ることがある。
逃げ込んだ客を守る。それはソマリも日本中世も同じ。しかし、ソマリでは、その家のルールを曲げてでも客に合わせなければならない。対して日本では、逃げ込んだ者は主人に生殺与奪の権を握られる。
カオスか専制かという究極の選択。それは現在の紛争地のイスラム主義と、戦国時代の信長に似ている。どちらも正義公正を大変重んじる。
かつて、過去は見えるから前方、未来は見えないから後方という感覚があった。「サキ」と「アト」という言葉の使い方にそれが見える。
サキ 先日(過去) 先々(未来)  アト 後回し(未来) あとをたどる(過去)
日本には大麻が自生していたのに、たばこ伝来後も結局吸うことはなかった。
江戸期には、米を重視するあまりモノカルチャーになり、それが飢饉の原因になった。また、東北では商品作物としての大豆が作られた。ずんだ餅にその名残がある。
日本人が旬のものを好むのは流通が発達しているから。旬を好むから発達したのか、発達したから好むのかはわからない。
独裁者は平和、統制を好む。
日本が同調圧力が強いのは、村が生活共同体であるだけではなく生産共同体だったから。
村単位で税金を取られた。ミャンマーでは税金は個人単位。
それでも、かつてはいろいろなムラ社会で価値観が少しずつずれていた。しかし、今はインターネットでダイレクトに国家につながる。最近のナショナリズムの強まりはそのためか。
「お国のために」は「政府のために」とは違って、支配者のみならず被支配者(家族など)も含んでいる。この言葉は百姓を動員するために戦国大名も使った。しかし、役には立たずその大名は滅んでしまったという。