『母宮 貞明皇后とその時代』

母宮貞明皇后とその時代―三笠宮両殿下が語る思い出 (中公文庫)

母宮貞明皇后とその時代―三笠宮両殿下が語る思い出 (中公文庫)

三笠宮夫妻からの聞き書き
プロイセンの勝利を目にして、日本は陸軍をフランス式からドイツ式に切り替えた。ドイツ式は決戦戦争。奇襲を持って突破して相手が準備不足のうちに包囲撃滅をはかる。しかし、ドイツ自身、二度の対戦ではそれが成功せず、時給戦争に持ち込まれて降伏した。日本も同じ。
昭和天皇は筋を通すことを重んじたため軍からの公式な説明しか聞こうとしなかった。高松宮三笠宮が個人的に戦況の厳しさを話そうとしても、公私混同を恐れてか、その機会を作らなかった。
南京において三笠宮は、「兵隊の訓練では、生身の人間銃剣で突き刺さなければ肝が据わらない」という話を聞いている。また、性的な面も含め共産軍と比べ風紀が乱れていることにも気づいていた。「虐殺」とは人数を言うのではない、とも話している。
貞明皇后は、昭和天皇夫妻には遠慮があり、三笠宮の長子(近衛)やす子を「初孫」としてかわいがった。「ばばがありったけのいたずらを教えて差し上げましょう」などとも言ったという。
敗戦、皇族の臣籍降下についても頭の切り替えが早かった。明治以前の四親王家に戻るという認識。梨本宮伊都子の激しさとは対照的。手放さなければならなかった別荘を入手した一家について日記に「あんないなかものゝババーや青二才に此家を勝手につかはれるのかと思ふと、くやしくて〱たまらない」とかいている。
棺には、「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」と親族が書いた細長い紙をひねったものが入れられた。